Book Maniacs

何となく新潮文庫

隠された十字架
法隆寺論

梅原猛

昭和47年(1972年)単行本初版
文庫初版昭和56年(1981年)
2003年44版

05/11/5

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「隠された十字架」は、梅原猛の代表作である。

その主張するところがどうであれ、名著としてすでに評価が定まっていることは、この書が1972年に発売されてから版を重ね続け、文庫では1981年に発売されたものが、私が手に取ったもので44刷となっている、ということからも明らかで、そして今でも入手出来るということは、いかにこの書が人々に受け入れられ愛されて来たか、を証明するものだと思う。

だから私がこの書について今さらどうこう言うことすらまったく的外れなことなので、本来なら口をつぐんでただ読後感を噛み締めておけばよいのだが、それだけでは済ませない魔力を、この本が持ち合わせていることもまた、事実なのだ。

 

梅原猛の書を敬遠していたのには、彼の本はただ読めばいいというのではない、梅原を読むためにはあらかじめ、ある程度の教養がなくてはならない、ということにもあった。

つまり、梅原猛を読むには、教養が必要だ。頭が悪くては読みとおせない。高度な教養が要求されるのだ。
だから恐れをなしていた。

確かに、梅原猛を真面目に読もうとしたら、哲学の先達である西田幾多郎、和辻哲郎、そして国文学の折口信夫、民族学の柳田国男などは必須である。
さらに古事記、日本書紀、万葉集、古今和歌集、歎異抄などに精通しておくことも必要だろう。

そんなの無理だ。

「隠された十字架」は、しかし、そんな教養に不自由な人間の感性をもとりこにする、無教養の不幸を飛び越えて魂を震わせる、強烈な、熱いインパクトと感動を持っている。

哲学者が、哲学の徒として真実に到達するための知の冒険であるはずのこの書が、こうも熱く、激烈な告発の書であることが、この奇跡を可能にしたのだろう。

 

 

法隆寺、と言えば、柿を食べたら鐘が鳴るという、あの寺だ。

法隆寺について私が知っていることと言えば、それだけだ。

いつ誰が建てたとか、いつの時代に建ったとか、日本で初めて世界遺産に登録されたとか、いっさい知らなかった。また、知ろうともしなかった。別に知る必要もなかったし、はっきり言って、興味がなかったのだ。
だいたい奈良のどこかにあるのであろう。それが何か?という態度であった。

だが、梅原猛は、はじめにこの法隆寺には七つの謎がある、と大見得を切る。
そして、その七つの謎をあきらかにする時、驚くべき事実が判明する、と。

まるでミステリーか、探偵小説のような書き出しで、我々の興味をぐっと引きつける。

 

梅原氏が挑むのは、つねに真実を探求し、真実に挑む哲学の方法論でもって、法隆寺の謎を解き、その真実に迫るという試みである。

そのためには、常識というフィルターをはがし、虚心の目をもってものごとを見、ものごとを考える。

哲学は、まず疑問を持つことから始まる。
それは、真実を知ろうとする学問である。

梅原猛の達した結論がどうであれ、この著書が美しいのは、真実を知ろうとする熱意、知りたいという真摯な欲求、真実に達するまで追求をやめない毅然とした姿勢、それらが読み手の胸を打つからである。

梅原猛は、言う。

…しかし私は、単なる美的観照者として止まれない運命を持っている。一人の認識者としての魂が私の中に宿っている。そしてその魂は私に命じる。一体このロマンにみちあふれた法隆寺という寺にあるのはいかなる真実であろうか。私は美的観照者であると共に真実の探求者でありたいのである。

この、とてつもなく美しい文章を読んだ時、私は陶然となった。そして、この決意の美しさに打たれた。

 

梅原猛は、聖徳太子の魂が自分に降りて来て、乗り移るのを感じた、という。

私が真理を発見したのではない。真理が長い間の隠蔽に耐えかねて、私に語りかけてきたのである。

真実を求める学問の徒が冷静さを失い、神懸りになっていては真実も曇るのではないか。

だが、ミケランジェロは大理石を刻むのではなく、大理石の中にある像を掘り出したにすぎないと言われたように、梅原猛の真実も、或いはあらかじめ、法隆寺の塔の中に用意されていたのかもしれない。

そのたったひとつの、あらかじめ与えられていた結論に向って、梅原猛は猛然と突き進む。

それを証明するために、ありとあらゆる証拠を持ち出して、ありとあらゆる方法で、自己の発見を証明してゆく。

今日では、この、1972年に発表された法隆寺怨霊説は、数々の疑問や反論が出され、必ずしも説として、多くに支持されているわけではない。

最後の宮大工として有名な西岡棟梁も、梅原説のような考え方は良くないと言っている。

梅原説を支持し、面白がっているのは小説家だとか、ノンフィクションライターなどの、イロモノの世界の人間だ。

だが、それでもいいのだ。

それでもこの書が今なお輝いているのは、梅原猛の、いちずに真実を求め、突き進んでゆく姿の美しさのゆえだろう。

それゆえに、この書は歴史を扱いながら、紛れもない梅原猛の哲学そのものを披瀝している。

 


このレビューは、途中まで書いてあとが続かず、結論が出なくて、長いこと放置したままになっていました。ですので前半と後半では、かなり書いた時間に隔たりがあります。

でも、ブックコーナーに梅原猛の名前がないのは、自分として、どうしても許せない。
それで頑張って書いてみた。

梅原様の話

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