Book Maniacs

東京育ちの京都案内 文庫 2003年(単行本1999年)
京都で町家に出会った。文庫2003年(単行本 2000年)

麻生圭子 文春文庫

04/9/23

これは微妙な本で、読んでからかなり放置していた。取り上げるべきでないとも思うのだ。

このような本を我々のような、生まれた時から京都に住む者がどのように読めばよいのだろうか。
確かに、京都在住の者が読むべき本ではないことはよく分かっているのだが、というのも、京都人、或いは京都人見習がこのような本を読む時の態度は、どこにスカタンな記述がされているか、揚げ足取りというか、ぼろさがしの興味だけで読んでしまいがちだからだ。

それでも何となく気になって買ってしまうというのも、他からの評判が気になる、見栄っ張りの京都人見習のゆえなのだろうか。

*京都人見習というのは、京都に住んでまだ1代、或いは2代目の人のことを言う。純粋京都人(住んで3代以上の京都人)と区別する意味で、勝手に使っています。

私のHPでこの本を取り上げるのは、非常にケッタクソ悪いという気もしないでもない。それでも思うことがあり、取り上げることにする(こんなんばっかり)。

 

まず、著者について説明しよう。
私はこの人をよく知っているわけではない、ただよく売れていた作詞家らしい。
本人自身は田舎の出身らしいが、東京に出て作詞家として成功し、高級マンションに住み、ポルシェを乗りまわしていた。夜昼逆の生活をしていた。
京都に住んでいた10歳以上年下の京大の大学院生と恋に落ち、結婚を期に京都に移り住んだ。
京都に住んで既に7、8年になるらしい。

 

まず、揚げ足取りからいこう。

「京都で町家に出会った。」の39ページ。

「…その半分を持ってほしい、といわはってるんです」

いわはってるんです、とは京都人の誰もが発音しない。言うなら、「いうたはるんです」だろう、誰がどう考えても。校正者は何をしているのか。こんな言葉のまま出版する出版社の気が知れない。
この例だけをとってしても、著者がいかにでたらめな「形だけ」の、ポーズとしての京都通でしかないかが分かるはずだ。
「いわはってるんです」。この一語だけで、著者は京都人の信頼を決定的に損ねた、と言って良いだろう。

 

この著者に、わたしが反発を感じるのは、身分が違うことにもよる。
著者は、京都の上流階級である。

もの書きというか、文化人というのは、京都では上流である。
祇園祭の奥座敷に通されるとか、イベントに駆り出されるというのは、上流だからである。
だから我々、下層階級の者がやっかむことになる。下層の者は、奥座敷に通されるというような経験をすることが出来ない。
いや、著者の書きぶりからすると、上流であることを自慢しているのだろうか。どうも書き方が鼻につくと思えるのは、これもやっかみなのだろうか。

もっとも違和感を覚えるのは、番茶についての記述である。

…当然、枝ごと切り落とすものだから、枝、茎なども混ざっています。(「東京育ちの…」)

と、したり顔で番茶について説明している。

説明するほどのことなのか?番茶が。

番茶の葉に枝やら茎やらが混じっていて、真っ黒に焦げていることなど、日本全国、誰にでも知られていることであろう。知らないのは著者だけではないか。
最近はティーパックになっているから、葉で買うことは少なくなっているものの、スーパーでも、フード・ショップでも、番茶は葉っぱで今でも売っている。
お前が無知なだけだろうが、と、私が突っ込みたくなるのも無理はない、と思っていただけるだろう。

 

私が、もっとも抵抗を感じるのは、この人が京都に住むことが、何か特別のことだと考えているからではないだろうか。

要するに、彼女にとって京都とは、自己のアンティーク趣味を満たす、住む骨董品にすぎないのだ。

ポルシェを乗りまわし、東京で最先端のくらしを享受していた女が、骨董趣味に目覚め、「古いものこそ最高」「古いものこそ新しい」ということを発見し、そんな自分を偉いと思っている。

春に桜を見、夏に蛍を追いかけ、大文字山に登り、秋に紅葉を愛でる。骨董を探し、古着を求める。
それが彼女にとってモダンであり、最先端である。
マンション暮らしはもう古い。今は京都で鄙びた町家の暮らしが一番新しい。
それを発見した自分に酔っている。

 

京都に住む人間が、誰しも夏になれば蛍を見、骨董好きであるというわけではない。
私の家は錦小路から近いところにあるけれども、一度もあそこで買い物をしたことがない。

著者の、「都会人だからこそ」蛍や骨董という侘びさびの世界を求めるのだというこの姿勢に、どことなく都会人の奢りを感じてしまう。
それが、読んでいて不愉快になってしまう点だと思う。
しかも彼女は、もともと都会人ですらない。

 

ひどいのは、「京都で町家に出会った。」の方である。

この中で、

私たちが望むようなちょうどいい頃合いの物件というのは、ないんですね。

というくだりがある。

元町家の改造住宅や、戦後の木造住宅と、ボロいながらも明治や大正期の建築様式をきちんと残している町家が、「地区年数不明」の木造住宅として一括りにされるのではあんまりです。

私はこの文を読んで、いいようもなく不愉快になった。

要するに、この人にとって京都の町家というのは、こういう認識なのだ。

戦後の木造住宅など、目ではない。そんなものは自分のステータスには合わないのだ。「戦後の木造住宅」など、彼女にとってはボロでカスなのだ。
しかも、著者はそうして手に入れた「町家」を自分のいいように改造してしまう。

著者にとって、先ほども言ったが、京都とは自分の骨董趣味を満たすための器にすぎないのだ。

本当に京都に住み、愛することが出来るなら、戦後の木造建築であろうが何であろうが文句は言わないはずだ。
最低、町家を本当に愛するならば自分本意な改造など施さないだろう。

無理をして町家に住み、無理をして走り(土間の台所)に降りて炊事をする、無理をしてでも町家の暮らしをする。
それは、ああ、町家に住んでいるんだという自己満足を得たいがためだけである。

京都に住むという根本的なこととは、それはまったく別だ。

わざわざ年がら年中着物を着たり、骨董品を食器に使ったり、そのくせ土間がありながら、ご飯を炊くのは電気炊飯器。寝るのはベッド。むかし暮らしをせざるを得ないのではなく、「あこがれて」いるにすぎない。
どう考えても、地方の人(京都人含む)に失礼な発想だろう。

「そんな井戸水とか、お竈さんにこだわらはるんやったら、美山の方まで行ったら、いっぱいあるんとちゃう?萱葺きの家とか」

と友人に言われて、「それだとちょっと違う」と著者は言う。

あえて使ってる井戸水、便利より文化にこだわる「むかし暮らし」に、あこがれているのです。

この程度の認識でしかないのである。

「むかし暮らし」はどこでも出来るはずだ。京都でしか出来ないはずはない。東京でさえその気になれば出来るはずだ。探せば、東京でだって風情のあるところはあるであろう。

 

私の家は、昔いわゆる町家だったが、改築してそうではなくなった。けれども改築しても木造で、今でも庭は奥にあるし、砂壁、畳に布団敷きの生活だ。
居間は板じきでカーペットが敷いてあるのに、そこに座布団を置いてちゃぶ台だ。ガス炊飯器とやかんはほぼ40年前のものを今でも使っている。
変えるところは変え、変わらないものは変わらない。生活とはそういうものではないのか。

確かに便利になった代わりに失ったものも多い。昔はハシリはふきぬけだったから換気扇などまったくいらなかった。
玄関から奥の庭まで一直線に通じているから、戸さえ開ければ風がとおり、涼しかった。
換気扇をしないと煙がこもり、冷房をしないと涼しくないのは、京都人の生活として異常である。
改築後の今の家は不便になったと思うことが沢山ある。
そういう意味では、生活へのこだわりは、あった方がいいのだろう。

 

***

 

それにしても、「京都で町家に出会った。」はひどすぎる。

「東京育ちの京都案内」の方はまだ、何となく余裕をもって読める。
しかし、
「京都で町家に出会った。」は、書いてあることにいちいち、むかつくのだ。

たとえば

西陣だから京都駅からは遠いですよ

でも、京都駅からタクシーで3千円はいかないでしょう?

…東京人の感覚からいけば、これは近いうちに入ります。

という記述。

京都駅から西陣まで、タクシーに乗るということが、平気で言える感覚が信じられない(観光客を除き)。そんなデリカシーのない人間は京都にはいない。
北野さんへ京都人が京都駅からお参りに行こうという時、タクシーで行くという発想をしないのと同じだ(ローカルな話ですみません)。

と、いくらでも文句が出てしまう。もうやめておこう(>_<)。

 

但し、これらの本を読んで、普段、常識だとか、普通だと思っていたことが、他府県の人からすれば珍しかったり、驚いたりすることなのだということが分かった。
その結果、それまであまり意識していなかった京都について、かなり意識するようになったと言える。
あまり意識しすぎて自意識過剰というか、京都意識過剰になったかもしれない。

これまで私があれこれ書いたことの元ネタを、この本(東京育ちの京都案内)から拾って来たことも事実なのだ(赤くないマクドなど)。

そして、この項を書き上げたあと、いろいろ考え、思うことがあった(こればっかり…)。

それでもこの本たちを、私は結局買ったのだし、文句を言いつつも読み終えた。
突っ込みを入れたり、いかったりするのを楽しんだりさえしたのではなかろうか。それでじゅうぶん、買った値打はあったのだ。もちろん私はこれらを買ったことを後悔していない。

むしろ、グローバリゼーションの波によって、急速に古都や観光地としての価値が失われている京都に対して、町家を使い、その外観の保存を実行してくれる人々というのは、京都にとっては願ってもない存在なのだ。

ただ、だからと言って、そういう「外来者」に尻尾を振っておだて上げるのは、私の欲する所ではない。

私は、多分「京都がほめてある」ことを期待して読んだのだ。
しかし実際は京都への賛辞ではなく、著者の自慢だったというだけのことなのだが、それは、著者の責任ではなく、私の責任だ。
勝手な期待をして買うから、文句を言いたくなる。私の悪い癖なのだ。


註) 町家という言葉を私は嫌いであるが便宜上使った。

番茶に関してはこちら

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