Book Maniacs

私説三国志
天の華・地の風


全9巻 光風社出版
江森備 1988-1998
04/2/27

1 総論(一般向き)

この作品はとても読者を選ぶ作品で、問題作です。好き嫌いがきっとはっきりすると思います。
男の人が読む本ではないのですが、正当な「三国志」ファンが間違って読む場合もあるようです。
そんな人でも、全巻読んだ人はこの著者の知識の豊富さと、構成力に圧倒されて、単にやおいとしてだけの評価では勿体ないと思う人もいるようです。
それ以外にもこの作品の文章、せりふ回し、言葉使い、そして時代考証など、素晴らしいものがあるのは確かだと思います。
女性は、案外すんなりと受け入れられるのではないでしょうか。

手が滑ってやおい論なども入ってしまいました。かなりムキになっています。
苦手な方も、まあ読んで見て下さい。

かなり長い作品で、語り出したら大変長くなってしまいましたので、2ストーリーと各論3ミーハー向け豆知識の欄を設けました。でもまだ「天華」の疑問点とか書きたいことがあるので次回書くかも(>_<)

 

ちなみに私は、ヘビーな話が苦手だ。どろどろも苦手、グロも駄目、痛いのも駄目、後味悪いのも駄目。まるで本番ダメ、縛りなし、スカトロ不可のポルノ女優みたいだ。

だから本来長くてヘビーなこの手の話は苦手なはずなのだが、この作品にはかなりの割合で心服させられた。衝撃的な最終巻まで読んでも、読後感は決して悪くない。
むしろ、けじめをつける、という点で見事である。やるならあそこまで行かなくては、とも思う。
感受性の強い人はきっと、この結末が深く心に刻まれたに違いない。

*

この本の不幸は、普通の「三国志」として、何も知らないごく普通の「三国志」ファンの人が手に取ってしまった、ということにある。

確かに構成力は圧倒的で、詳細な資料を駆使して構築されたこの「私説三国志」世界は抜きん出ているものがあり、もしかすると本来の作家による「三国志」を、ひょっとしたらある点では凌駕してさえいる、のかもしれない。
少なくとも発想や事件の解釈など、他には及ばない独創性がある。
少しもゆるがせにしないディテールの積み重ねなども見事だ。
だから「単にホモ小説」として捨ておかれるのは勿体無い、のかもしれない。その中だけに収まらないものも確かに持っている。

例えば蜀建国以降から、南蛮征伐を行なうまでの間、孔明が何をしていたのか(大したことをしていない)のはなぜか。

関羽が荊洲(はん城)で結局挟みうちの末、殺されたのはなぜか?
孔明が荊洲を簡単に捨てたのはなぜか?
周瑜が蜀攻めに執念を燃やしたのはなぜか?
劉備が蜀平定に孔明でなく、鳳統(字が違う…)を連れていったのはなぜか?

ことごとく、独自の答えを用意している。

英雄が活躍する豪快な三国志の世界を、どろどろの、生々しい政権争いと権力抗争の場にすりかえているのも、男性の作家なら考えもつかないことではないだろうか。

三国鼎立という危うい均衡の中で、水面下であちらとこちらが内通し、抜け駆けし、どんな手を使ってでも少しでも他より優位な立場に立とうとする。
三国鼎立の内実は、確かにこんなものではなかったかと、実感させさえしてくれる。
それらはあまりにも生々しくて、1800年前の出来事を書いていると思えないくらい現実味がある。

 

ただそれでもこの本は基本的に「三国志」ではなく、今でいうボーイズラブ、耽美小説、或いはやおい、昔はJUNEといった、「女性が描く男子同性愛」のコンテキストに添って読まれるべきものだと思うのだ。

主人公の生き方を、たまたま三国志という歴史の中に見出した、と言っていいからだ。
(たとえ、最初に孔明ありき、であってもだ。)

ただ、読む時に「三国志」の知識は不可欠で、あまりにも難解で、凝った構成になっているため、「三国志」を何も知らないで読むとちんぷんかんぷんである。かなり知識が要求されるだろう。

*

やおい、JUNE(ボーイズラブという名称はまだなかった)といわれる作品を沢山読んだわけではない。読んだものでも特に心に残ったものはない。
そして、さらにそれらは発生してから年を経るに連れ、あまりにもお手軽に書かれすぎて、取るに足りないものになってしまった。
やおい、とはそもそも根本的には、肯定出来ない自己の克服、だったはずだ。

この「私説三国志」の作者は、それを意図して書こうとは思っていなかったのかもしれないが、やおいというくくりで考えれば、この渾身の作品こそ、それの最良のテキストといえるのではないだろうか。少なくとも、私の心に残る作品にはなり得たのだった。


「三国志」は、まず「人形劇三国志」から入ったことは他でも書いた。
(ちなみのこの作品の作者もそうらしい)

「小説JUNE」はいつごろ読み始めたのだろうか、1989年ころだっただろうか。
小説が読みたかったわけではない。紹介されている映画や本などが、とてもしゃれていたからだ。

買った「小説JUNE」にたまたま「彼の蒼なるものの名は」(単行本では第3、4巻)が連載された。「三国志」ものだというので喜んで読み始めた、というのが、「私説三国志」を読んだきっかけだ。

 

「人形劇」を見ていたら、一目で孔明は受け、だと思った。誰が見ても受け。あれは絶対受け。だから、「私説三国志」(江森三国志、天華ともいう)は、とても正しい。というのが私の態度であった。

連載されて第5巻まで単行本でも出たが、その後長い間、連載も出版もされなかったので、私も一度は忘れ去っていた。
が、ある時、随分経ってから本屋で最終巻の第9巻まで出ているのに気がついた。それが多分、1998年ころ(本の奥付けによる)。
だいぶ経ってから完結していたのを知ったのだった(連載終了から5年後に単行本の書き下ろしがあったらしい)。

つまり、第1巻から第5巻までは連載の単行本化で、第6巻から第9巻までが単行本書き下ろし、ということになる。

私もそうだったように、この物語が完結していることを知らない人も多いだろう。
もし、最後まで読んでいない人がいたら、それは大変な損失なので、ぜひ最後まで読んで、打ちのめされよう。疑いもなく、最も重要なのは最終巻なのだから。

 

それだけ年数がかかったのは当然だろう。三国志の世界をこれだけのディテールでこと細かに再構築してゆく構成力は並々ならない作業のはず。

だが、それでもこれは、一般の「三国志」とは一線を画すというか、違うのだ。
あくまで「ホモ三国志」。正当の「やおい」としてまず読まれるべきだろう。と思う。

今回もう一度読み直してみて、最初に読んだ時とは違う発見をした。

初めに読んだ時には分からなかった。
それは、私があくまでノーマル(?)だったからだと思う。当然分かっているべきなのに、孔明=ホモ、という図式だけで解釈していたのだ。

けれども、本当は孔明=ホモであるよりももっと重要なファクターがある。
それは、孔明がマゾだということだ。

この作品は孔明がホモセクシュアルであるよりは、むしろマゾヒストであることに重きを置いているのだ。

ホモでマゾ。もう、踏んだり蹴ったりである。

この孔明がホモでマゾ、という自分をどのように(拒絶し)引き受け、受けとめ、自分の中で解決してゆくのか。克服できるのか。それともおぞましい自分として否定するのか。

 

マゾヒストとしての孔明の描写は完璧だ。
孔明はもう、真性のマゾヒストなのだ。

男に苛まれることでエクスタシーに達する。

男に肉欲の目で見られ、屈辱的に屈服させられる。そのことで興奮するのだ。そのことが喜びなのだ。
理性では否定しながら、男の肉欲の対象になりたいと、本来はそう思っている。
男に犯されることを恐れ、恐怖し、拒絶しながら、求めている。

性の欲望が、こんな回路を通ることがあるのを私は知らないので、本当にこんなことがあるのかどうか、分からない。ただ分からなくてもいちおう納得はした。

孔明の、肉うすく骨ほそい美しい体は、これに、夜ごと征服されるのだ。この肉が欲することは、孔明は甘んじて受けねばならない。

これが、マゾヒストの官能。「甘んじて」受け「ねばならない」とはもう、見事なマゾヒズム感覚ではないか。
(気持ちの悪い人は女性に置き換えて下さい)
ごく普通にSEXをする時に、相手にこのような思いを抱いているのだ。

かれは、見えない縄目と鎖で、孔明を縛って、支配している。

縄と鎖、支配。単に好きと言えばいいものを、このように言う。完璧である。

 

サディズムとマゾヒズムは正反対に見えて、本来は表裏一体のものだ。

マゾヒズムが極限まで追い詰められれば、簡単にサディズムに転換してしまうだろう。

だから孔明は、自分が痛めつけられた分、他人に残虐になる。
自分の無残な体験を克服出来ないまま、他人との関係をみずから遮断し、他人を利用するだけの道具としてしか認識しなくなり、敵と見定めた者は徹底的に追い、排除する。

それは、自分を陵辱した、世界への復讐だ。
孔明は復讐の権化として、徹底的な冷血漢へと変身してゆく。

この制御出来ないサド-マゾヒズムにとらわれた囚人を、何とまあ、克明に描写しているだろう。

私は、すぐれたマゾヒズム小説として推奨したいくらいだ。

 

***

ただ自分の性衝動を、それが、ホモだったりマゾだったりであるにしても、それを必ずしも否定的にとらえない人もいるはずだ。
オカマだけどそれがどうしたのよ?という人はいるだろう。もちろんそれなりの苦難を経ているだろうけれども。
しかし、自分の性衝動をどうしても肯定出来ない人間もいる。

それを、例えば性衝動だけではなくて、自分の中にあるコンプレックスと言いかえてもいいだろう。
私は、やおい、或いはJUNEとは本来、このコンプレックスの自覚と戦いだと思って来た。

女性が自立するにつれ、男性が、女性を男の単なる性欲の対象としてしか見ないことに、女性は理不尽さを感じてきた。

女は、女である前に人間だ。24時間女としての性衝動を感じつづけて生きているわけではない。そんな簡単なことを、男性は有史以来全然気がつきもしなかった。
女だってオナラをし、鼻をほじり、小泉って最低よな、と呟く。そういう生き物でもある。
そう思いながらも、男性の性の対象でありたいという思いも押えられないジレンマ。
それはそのまま、JUNEという小説の中に出て来る、美しい同性愛者の苦悩そのままだ。

女の性は結局受身でしかなく、女の性衝動は、男性に支配されたい、という欲望なのだ。
(もちろん違う人もいるだろう。でも、JUNE・やおいを求める女性にとってはそうなのだ)

人として個の人間として認められたいという願望と、この否定すべき性衝動との間で肯定出来ない自分を、認めるために、女性はやおいを求めた。

君はそのままでいいんだよ、と言ってくれる人がいることで、自分を肯定出来る。
やおいは恋愛願望である。けれども同時に、アンビバレントな感情に裂かれた自分を救済する手段でもあった。

君はそのままでいいんだよ、と言ってくれる誰かを切実に希求することが、草創期「やおい」文化の根幹だった。


「江森三国志」に戻る。

(抵抗のある人は、これを孔明=女として読んで差し支えないと思う。孔明=キャリアウーマンのジレンマ、として読めば、完全に理解できるものと思う。)

*

まず欠点は沢山あって、主役以外、キャラが立っていない(後半ではかなり解消されて来た)。
3、4巻でのフラッシュバック手法の事象の矛盾点。
副主人公や悪役のキャラがステレオタイプである。一貫性のない人物像(姜維)など…。

また第1巻の周瑜編といえる巻は、あまりにも修飾過多で私は買っていない。説明過剰で、大げさな愁嘆場は、かえって興を殺いでいるような気がする。これは、習作と思いたい。(もともとは、投稿小説であった)

このひと月足らずのうちに、孔明は男を求ぐ男娼になりさがっていた。周瑜なしでは居られぬ体に、されてしまった。…

と、このような表現が、私にはひたすら恥ずかしい。性描写ではなく、文章表現がちょっと気持ち悪い。
孔明の美貌を説明するのにやたらオーバーな字句を連ねたりするのも、孔明の心情を説明するのに、

この無表情の裏に、いったいどれほどの慟哭を押し隠して…

というような調子が続くのも、抵抗を感じお尻がむず痒かった。書かずもがな、である。
もし私が、最初に読んだのが第1巻だったら、続きは読まなかっただろう。

作者はそのことを反省したのか、第3巻以降は孔明の心のひだの描写を出来る限り排除して、具体的な行動や行為だけに絞っていった。
その結果、かえって孔明の胸のうちの修羅を浮かび上がらせるのに成功しているのではないだろうか。

 

第1巻には孔明がマゾヒストであることがはっきり書かれているが、自分の呪われた性をただ嘆き、そのことに酔い痴れているだけだ。
「愛しているけどあの人を諦めます」というのでは、メロドラマと何ら変わりがない。
さらに周瑜を殺したことに何の反省もなくて、ただ周瑜を失って悲しい、というのでは孔明の心情にとても同調出来ない。

ただ、孔明はこの周瑜との軋轢の末に、愛を捨てる、という結論に達した。
人間の心を持っていたからこそ、孔明は、愛していた周瑜を殺さなければならないという現実に、もがき苦しむ。だから、人間の心を捨てたのだ。
心さえなければ、もう誰を殺しても痛みを感じないだろう…。

 

3、4巻では、自分の心を封印した孔明はもう二度と情に溺れることはない(別人のようだ)。

彼は取りつかれたように、政敵とのドロドロの政権争いに自ら飛び込み、邪魔者を次々に容赦無く粛清してゆく。自分の肉欲を、政争の道具にさえ使おうとする。
自分が、蜀の国でトップにならなければ気が済まない。孔明は、同性愛とマゾヒズムという劣等感を解消するために全人生を捧げて、トップに立とうとするのだ。
だから主君でさえ、自分のいいように操ろうとする。

 

「陛下の許で、私は一度として人としてあつかわれたことはない」と孔明は言う。
彼は人でありたかったのだろう。しかし、もし人となり、人を愛したら傷つくのは自分。孔明の愛は、呪われた愛だから。だから彼は人に心を開かない。

孔明の心の修羅を知ってしまった一人の男がいて、男は、そのゆえに孔明に激しく惹かれてゆく。しかしそれでも孔明は、その者に心を許さず、男を屈服させることしか頭にない。過去の愛だけをよりどころにして、現実を見ようとしない。何と寂しい人間だろうか。悲しく愚かな人間だろうか。

 

書き下ろしの6巻以降では、孔明の残虐性は薄れ、精神の均衡を取り戻し、迷わず目的に邁進しているように見える。
蜀の国でトップに立った孔明は、今度は中華帝国のトップに立とうとする。

孔明はまだ少年だった幼いころ、時の権力者、董卓によって体を陵辱され、枕侍童として仕込まれた。
孔明の生涯は、この時に形成された、拭いがたい心と体の傷を修復し、自己を取り戻すことに、すべてが費やされた。

普通の三国志では、ディテールをどう書くかに意識が集中して、全体の整合性を失いがちだ(とても長い物語で、人物が沢山登場することもあって)。
また読む方も、作家がディテールをどのように書いているか、だけにしか関心がなかったりする。
が、この作品は、孔明を主人公とすることで、どんなディテールも整合性を持ち、「孔明の漢復興への執念」という所に収束してゆく。

 

もともと孔明の野望は中原の回復、そして漢王朝の再興ということだった。(これは、他の「三国志」と変わらない。)ひいては、「中華帝国をおのれの足元に跪かせる」こと。
それは漢の国と、自分とをともに陵辱した董卓への復讐なのではないだろうか。

孔明は、主君・劉備に皇帝となることを勧め、蜀の国を漢と名乗らせる。孔明の生まれた地、住んだ所は今はすべて魏の国の支配下だ。孔明は、漢丞相として故郷に帰りたかった(故郷とは、自分が陵辱される前の無垢な自分の場所だ)。だからこそ魏の国を滅ぼし、そこを漢として復興させる。孔明にとって、それが悲願であったのだ。魏の国へ攻めることがどうしても必要だった。たとえそれが不可能だったとしても。

漢は孔明そのものなのだ。
孔明にとっては、漢王朝を自分の手で復興させることが、幼いころに陵辱された自分の尊厳を回復することでもあったのだ。

 

それがために孔明は、執政者となる勉強をし、知識を身につけ、劉備という主君を選んだ。
彼は自分の陵辱体験を、このようにプラス転換し、そういう意味では克服しかけていた。

しかし、周瑜(呉の国の武将)が孔明の、忘れようと努力していた情欲に火をつける。
孔明は自分の中の、否定するべき情欲、或いは愛から逃れられないことを悟る。

 

周瑜を殺すと言うことは、自分の性欲を否定することだ。

だが、それならば中原回復とは、自分のおぞましい性を隠すための大義名分ではないのか。
自分の性欲を否定したり、忘れようとしたりすることは、不可能なことなのに。
自分の本性を隠してトップに立とうとすれば必ず無理が来る。力ずくで、無理やりトップに立ったとしても、それが正しく満足のいくことになるだろうか。

 

人間は誰でも完全ではない。誰しもコンプレックスがあるだろう。

孔明が完璧主義者で、何でもかんでも自分の手でやらなくては気がすまない、という描写が出て来るが(演義でも出て来る。史実のようだ)、それだから、自分の中にある不完全な部分、呪わしい性欲が許せないのだろう。

けれども君はそのままでいいんだよ、という人がもしいれば、自分が不完全でも許せるようになるはずだ。

愛される、ということは、自分が不完全でも相手に受け入れられるということだ。
たとえそれが呪わしく、おぞましい性であったとしても、そのすべてを受け入れ、許してくれる相手がいたとしたら。
愛を知る時、孔明のサド‐マゾヒズムは克服される。だろう。

女は、ある時、突然「私って、ただの女だったんだ」と気がつく時が来る。「ただの、普通に男の好きな女」。「ただの、普通にセックスの好きな女」。そして気がつくと、楽になる。

だが。

孔明の不幸。それは、愛を知ったと同時に、愛に復讐されるということだ。
なぜなら孔明にとって、それがどれだけ無上の愛であろうと、それが呪われた、いびつな性であることには変わりがないのだから。

 

もし、孔明×魏延の二人の関係を、同志とか、主従としてだけ描いていたら、普通の三国志として認められたかもしれない。それだけでもじゅうぶん感動的な話になったには違いない。

けれども、やおいが「コンプレックスの克服」、「受け入れてくれる相手の切実な希求」である時、二人はどうしても肉体で結び合うことが必要だったのだ。ろう。

 

エロティシズムとは、死にまでいたる生の歓喜である、と澁澤龍彦は言った。*
作者ももちろん、この言葉を知っていただろう。


*正確にはジョルジュ・バタイユの著作からの孫引き。

「エロティシズム」澁澤龍彦 中公文庫

「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ ちくま文庫

「私説三国志 天の華地の風」1-9巻
初版は1-5巻光風社出版(現在絶版)6-9巻成美堂(絶版)
註)1-5巻は成美堂出版のものもあり。光風社のものの再販。(これも絶版)
私の持っているのは、1-5巻が光風社(発行90年-93年)、6-9巻が光風社発行、成美堂出版発売(発行98年)となっている。
初版の光風社のものは、誤字が多いという。(参照
Thanks to Cool Mint Kingdom

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