Book Maniacs

個人的にとてもショックを受けた

三国志と日本人

講談社現代新書

雑喉潤

2002年

04/3/26

三国志の本は沢山あり、山ほど出版されている割りには、内容はどれもこれも似たり寄ったりというのが本当のところだろう、と一度三国志にはまった時から思っていたので、新しく出版されたとしても、前のどれかの焼き直しのようなものに違いない、と信じていた私が愚かであった。

この本を読んで、私は大変ショックを受けた。
それはもう、歴史認識が改まるほどのショックであった。

 

この本は、日本に訳された「三国志」、「三国志」と日本人の関わり、という観点から三国志を論じたものである。

古くは「日本書紀」「太平記」から横山三国志、北方三国志まで、日本人が三国志とどう関わり、馴染んで来たかが書いてある。そういう意味では普通の三国志本とは趣を異にしていて、ユニークだ。

私がショックを受けたのは、本のしょっぱなである。
最初の、書き出しのところ。

つまり、日本人が文化を持ち、字を持ち、字を書き始めたころから書き出されているのだが、そして、その日本人が、日本の歴史上、初めて本というものを顕わしたのが「古事記」、そして「日本書紀」。それは、歴史の時間で学んだ。

初めに日本人は「古事記」を著した。そんな風に習った。

しかし、正確にいうと、「古事記」と「日本書紀」は、どちらが初めに書かれたのかは分からない、或いは何とも言えないのだとこの書は言う。

それはまあよい。

しかし、この日本最古の書物であるかもしれない「日本書紀」は、「三国志」の影響を受けて書かれている、と、この書は指摘しているのだ。

この指摘に私はぶっ飛んだ。それとも、ぶっ飛ぶのは私だけなのだろうか。私があまりにも歴史に疎く、馬鹿だからなのだろうか。

日本人は、日本創生のころ、隣国・中国に学ぼうとして、中国の漢字を取り入れ、字というものがなかった日本に字の文化を導入しようとした。

日本は中国の文化を学ぶため、隣国に使節を送った。遣隋使や遣唐使である。

そんなことは、歴史で学んだ。誰でも学んだだろう。

だが、遣唐使が中国から、「史記」「漢書」「三国志」と、この三冊を持ち帰り、これを手本に、日本人は字ばかりでなく、いろいろのことを勉強したのだった。

当時の碩学の間では、この中華の三冊を学ぶことが、学問をすることだった。

この三冊は、当時の国語、文化、歴史、天文(?)数学(?)…ありとあらゆる学問のすべてだったのだ。

それもまあ、分かった。

ショックなのは、「三国志」の成立が、遣唐使よりもずっと前であり、「日本書紀」が書かれるずっと前に著された書だったということなのだった。

というよりも、「日本書紀」が書かれたのが遣唐使よりもあと、「三国志」(正史)よりも500年もあと、であるということだった。

もちろん、三国志の舞台になった時代が西暦200年代だったことは知っている。

赤壁の戦いが208年、劉備が漢中王になるのが219年、劉備没が223年、孔明が「出師の表」を書いたのが227年である。

このころ、わが日本では字などないどころか、サルから進化したばかりで、どうせ洞穴に住んで、獣の皮を着て、狩をして暮らしていたのに違いない。いや、いいとこ農耕が発明され、土器に線を描いて使っていたくらいの時代であったろう。
(卑弥呼が魏に使いを送ったのが238年である。)

そして、陳寿の「三国志」(正史)が編まれるのがこの本によれば280〜290年ころ。
裴松之による注釈がつけられたのが429年。

推古天皇が遣隋使を送ったのが600年、遣唐使が702年、平城京遷都が710年、そして古事記が712年、日本書紀が720年に成立している、という。

古事記と、日本書紀の成立がいつの頃だったかというのを正確に理解していなかったこともあるが、はっきり言って、私はもっと前に出来たのだと何の根拠もなく思っていたようだ。

もちろん、200年代だなどとは思っていなかったが、日本史と、中国史を思うときに、その尺度が私の中で、明らかに食い違っていたのだ。

それは、とにかく古代中国が、あまりにも発展しすぎていて、日本人の尺度では計り切れないほど古い時代から文明を誇っていた、ということに尽きるのではないだろうか。

古事記や日本書紀なんて、ずっとずっと、太古の、大昔に書かれたものだと思い込んでいた。

日本としては、日本史としては確かにそれで間違いはないかもしれない。

しかし、「三国志」(正史)は、太古どころか、古事記のまだ数百年も前のものなのだ。

 

日本人が、700年代に入るまで文字を持たなかった、という事もショックだし、遣隋使・遣唐使が持ちかえった中国の書物に影響を受けて「日本書紀」が書かれた、その書物の中に「三国志」が含まれていた、ということもショックだった。
しかも裴松之の注釈つき「三国志」。

つまり、「日本書紀」は、「三国志」(正史)の、裴松之による注釈の方法の影響を受けている、というのだ。

注釈がつけられたのが429年なのであるから、年代としては(遣唐使が注釈つき「三国志」を持って帰って来ても)当然で、不思議でもなんでもないのだが。

それでも、頭では分かっていても、感覚として、どうしても受け入れられない部分が私にはあるのだった。

 

「三国志」を読んでいると、まさか日本ではまだ文字がなく、原始人の暮らしをしている時代に、中国でこのような文明があったなどと、到底信じられない。

というか、そんな原始時代の話であるなどとは思えない。もちろん中国ではもう、原始時代ではないからだが、日本では、明らかに原始時代だったのだ。この文明の差はなんだろう。

日本人が、獣の皮を着ていたころ、諸葛亮は、

「表に臨みて涕零し云うを知らず」

などと、単なる文章ならず、人の情に訴える今に評価される高度な名文をものしているのだ。

この文が書かれた500年後に、古事記である。ショックである。

中国は、漢がその後の中華の歴史の中で、最も進んだ国だったのかもしれない。


★ちなみに、「三国志演義」の成立はずっと遅く、1390年代である。
私たちは、演義をベースとして三国志になじんでいるから、三国志で出て来る風俗とか習慣などを、演義成立の元末明初のころの習俗と混同しているのかもしれない。

★最近、3世紀ころに作られた文字入りの土器の破片(?)のようなものが発見されたという報道があった。それが本当に文字だったとしたら、日本で最古の文字ということになるのだろう。3世紀ころには、日本でも既に字が使われていたということだ。けれどもこれは、当時交易していた中国など、大陸からの輸入品かもしれない。

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