Book Maniacs

文春新書

「我輩は猫である」の謎

長山靖生

文春新書

平成10年

04/5/30

-「猫」執筆100周年記念アップ-

最近好調の文春新書。その創刊に際して発売されたもののひとつ。

私は漱石オタクで、「猫」フリークだ。

だからこのような本が発売されるのはとても望ましい。このような本が出ることを、長く待ち望んでいたと言っても良い。
オタクの心をくすぐるような記述が羅列されており、とにかくヨダレをたらしながら読んだと言っても良い。
なので本がヨダレで汚れてしまったほどだ。

今年は「猫」執筆100周年だということである。こんな目出度いことはない。どんどんと「猫」特集をして欲しいと思う。

ちなみに、通のひとは、「我輩は猫である」を「猫」と呼ぶのである。

私ははっきり言って、「通」だから「猫」と呼んで一向差し支えがない。

この本の中に立てられているサブタイトルに、そうそう、それそれ。あったあった。と、いちいち頷きながらニヤニヤしているのが通である。

すなわち、餅、タカジヤスターゼ、蛇飯、万能ハサミと小刀、パナマ帽、フロックコート、新体詩、俳劇、霊の交感、天然居士、車屋のおかみさん、落雲館、雪江さん、痘痕とハゲ、坊ばの秘密、等等。

すべてに心当たりのある人は、猫フリークだ。ともに喜びを分かち合おう。

私としては、アンドレア・デル・サルトやトチメンボーが章立てられていないことが少々不満だ。
オタンチン・パレオロガスや、寒月君のみょうちきりんな研究にあまり触れられていないことも、多少の不満はある。
その代わり、私が以前から気になっていた「探偵」について、結構長く弁じ…、いや論じられていたのは収穫だ。

また、本のいっとう初めに、「机」の話が出て来る。
(苦沙弥先生が)建具屋に特注して作らせた、特製の大机だということである。

これは、私の注意外であった。要するに、それを注目して読んでいなかった。そういう記述があることを全然知らなかった。
とても悔しい。
自分が知らなかったことを指摘されるのは、とても悔しい。何においても、「猫」で読み落しがあったとは、ええ悔しい。ああ悔しい。
はっきり言って、私は、「猫」を、そんなに詳細に読んではいなかった、ことがバレバレとなった。

「猫」の主人は珍野苦沙弥先生だが、このキャラクターがすべて漱石自身かというと、そうではないことは、猫ファンでなくともすでに周知のこととは思う。
しかしこの本では、苦沙弥先生と漱石とは完全に混同されており、本当なら、漱石は、と書くべき所も苦沙弥先生になっていたりする。
それはそれで楽しい混同で、オタク心を惑わす魅惑的な混同であり、オタクとして突っ込むべきではなかろう。

 

ところで、この本は、「猫」の世界をただ面白い、と俯瞰するだけではない。所々にちらちらと顔を出す、不気味な影のようなものが気になる。

それは明治という時代を覆う風潮、思想、に対する、ある種の暗い認識だ。つまり明治という時代がどのようなものであったか。
それは、高等遊民であろう苦沙弥やそのサロンの人々と言えども逃れることの出来ない、時代の波と言うことである。
昭和・平成(つまり戦後)を生きていることが、私たちのイデオロギーやアイデンティティと無関係ではあり得ないように、である。

長山靖生という人は、まだ若いのであるが、明治という時代を風俗から切り取る、明治の研究者として驚くほど鋭い視点を持っていると思う。
それは、彼のどの本を読んでもそう感じる、貫かれている共通点だ。

一見何の関係もない本を上梓しているように見えるけれども、そういう意味で、すべて同じひとつの視点がこの著者に通底しているのだ。

長山靖生「謎解き少年少女・世界の名作」

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