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レンブラント

「放蕩息子の帰宅」

ユダヤ人であり、熱心なキリスト教徒であったレンブラントは、聖書を題材にした作品を多く描いた。

この「放蕩息子の帰宅」もそのひとつ。

出典は新約聖書、「ルカによる福音書」のたとえ話。

 

裕福な男が、自分の二人の息子に財産を半分ずつ生前贈与した。

思いの兄は、父のもとにとどまり、父の財産を守った。

弟は遊び人だったので家を出、放蕩を尽くして、やがて父から貰った全財産をなくし、一文無しになった。

弟は後悔し、父の家に戻ると、父は何一つ咎めだてをせず、弟を迎え入れ、盛大な宴を開いた。

それを見ていた兄は憤慨し、父に、

「私は弟のように親不孝をせず、
                貴方のもとにずっといたのに、私のために一度も宴を催してくれた事はない。

それなのに弟はあのように放蕩を尽くしたのに、あのようにもてなすとは、不公平ではないか」

と言った。

しかし父は言った、

「お前は私のそばにいるからいつでも宴を催す事が出来る。
        しかし、弟は死んでいたのに生き返り、遠くにいたのに私の元に戻ってきた。
       こんなにめでたい事はないではないか」と。

 

この譬え話を初めて読んだ中学生の時、私はこの父の弁明に納得がいかなかった。

兄の言い分が正しいではないか。

ずっとそう思っていた。

だから福音書のこの譬えを、おかしいと思っていたのだ。

だが、福音書の短い記述からその真意を汲み取るのは、少しばかり考えなくてはならない。

 

私が放蕩息子の譬え話の真意が分かったのは、学校を卒業してずっとあと、このレンブラントの絵を見た時だ。



ズタボロになった弟が父に謝っている。

それを優しく受け入れる父。

弟は自分が財産を使い果たし、惨めな境遇になってみて初めて、
自分の愚かさに気づいた。

父は、そんな愚かな自分を許してはくれないだろう。
しかし、一言謝りたい。

父の元に戻り、もう一度庇護してもらうつもりはない。
ただ、自分が愚かだったこと、愚かだった事に気づいたことを、
父に知ってもらいたい。
それだけ、分かってもらいたい。

そういうつもりで家に返った弟。

そしてその弟の気持ちをすべて察し、黙って許す父。

レンブラントのこの絵を見ていると、そんなストーリーが、
おのずと連想されて来るのだった。

かつてはお調子者の弟を嫌っていた私だが、この絵は、その弟のほんとうの気持ち、ほんとうの姿を描いていた。

聖書が言わんとしていた真実のドラマを再現していた。

この絵を見て初めて、私は聖書が言いたかったのはこういうことだったのだ、と悟ったのである。

 

まっとうに生きている者には、あえて助けはいるまい。
迷い、行くべき道を分からないでいる者にこそ、教えは必要なのだ、というイエスの教え。

父にひいきにされているとか、不公平とかいうことは、この物語の真意ではないのだ。

罪を犯し、道を外れた者でも、本当に心から後悔し、自分を責める気持ちがあれば、
その人は救われるのだ、というイエスの教えを譬えた話だったのである。

レンブラントは、その聖書の本意を、このように感動的な、胸に迫るような迫真の描写で、
明解に私たちに提示してくれたのだ。

 

聖書を題材にした絵画の中でも、傑作の一つだと言えると思う。

 


レンブラントの宗教画より

 


エマオの晩餐

 

イエスの死後、弟子たちの前に復活の姿を現したキリスト、
それを知らずに晩餐を共にし、その人がパンを裂いた時、弟子たちは、それがイエスであることに気づく。

ルネサンスから幾多の画家が描いて来たルカ伝によるエマオの晩餐のその瞬間の場面。

レンブラントは、イエスにわずかの光背の光を添えて、その孤高としての存在と、神性を表しているようだ。

激情を抑えた深い信仰による、静かな感動がある。

 


「説教するキリスト」

レンブラントは、エッチングの名手でもあった。

 

聖書に関する作品も沢山描いたレンブラントだが、このエッチングもキリストを光の中心として集団像をまとめ、
感動的な場面を作り上げている。

 

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