Temple

養源院
法住寺

東山区大和大路通七条下ル

06/1/4

養源院は三十三間堂のちょうど向かいにある。秀吉がかつて建てた、桃山御殿ゆかりの寺というか、そこから移築した建物で成り立っているようだ。

三十三間堂へ行ったついでに寄ってみよう。ここには意外な見ものがあるのだ。


いきなり血天井という看板が…

桃山城落城の際の血天井があり、また俵屋宗達の杉戸絵があることで名高い。常時拝観できるのはありがたい。

桃山御殿と書いてあるのは、もともとここは秀吉の側室(淀殿)が父の追善のために建立した寺というが、火災にあい、徳川秀忠が夫人(淀殿の姉妹だという)の願により伏見城の遺構を移築したのが現在の本堂であるからだと言う。
以来、徳川家の菩提所となっているというが。

本堂では確かにこの部屋は伏見城のどこそこを移築したもの、と、説明してくれる。どの部屋も伏見城のものを持って来ているようだ。

ちなみに、豊国神社の唐門も伏見城からの移築と言われており、伏見城の門は、京都のいたるところに移築されている(らしい)。

 

境内は広くない。むしろ狭いと言えるだろう。入り口に、例によってへんな神社があり、昔の寺はつくづく神仏混合だったのだと思う。
紅葉が始まったころだったので、それなりに気持ちのよい環境だった。

ここがお堂である。案内人はすべてさむえを来た女性(若い)であり、カセットテープで説明がある。カセットが終ると、案内人が補足をあれこれ語ってくれる。

午後、すでに夕方近くだったので、堂内は薄暗く、照明などないので杉戸絵は暗い中を、目を凝らして見るという形だった。しかし、それが良いと思った。

廊下はうぐいす張り(左甚五郎作だってさ。おいおい…)で、そっと歩けば歩くほどギシギシと音がする。本堂の数ヶ所に血天井があり、手の形などがどす黒く浮き出ている。
案内の女性が、指示棒で天井を指して、これが顔、足、などと教えてくれる。

伏見城落城の際、自刃した武士たちのものというが、大阪夏の陣かなんかで、豊臣が負けた時、伏見城を守っていた鳥居元忠と家来が自刃した、その板の間を、天井に上げ弔ったものと。


宗達の杉戸絵 有名な象の絵

俵屋宗達は、伏見城落城の際に、自刃した志士たちの霊を弔うためということで、依頼されたということだ。本堂の襖12面と、杉戸8面が宗達の筆による。
それぞれの戸の上に、国宝という額が麗々しくかかっているのがちょっとイタタだったが…。

白象は最も有名かもしれない(重要文化財)。大胆なデフォルメと筆遣い、太い縁取りで描かれていて、実物もものすごくモダンだ。暗いので目を凝らさないと良く見えず、こんな風に色合いははっきりとは分からないが…。

でも、あの時代、一体どういうメンタリティでこんな大胆な絵が描けたのか。不思議だ。


襖の松の絵と八方睨みの獅子

襖に描かれている松の絵は、うねうねくねくねしていて、これもまた大胆というか、モダンというか、本当に意表を突いた表現だ。

獅子の絵は象と同じく戸板に描かれている。もうひとつの獅子と一対であり、この正面を向いた獅子は、どこから見ても睨んでいるように見える八方睨みである、と案内人のお嬢さんが解説してくれる。
それではどうぞごゆっくりどこからでもご覧下さい、などと言って、じっくり見せてくれる。親切だ。

養源院の宗達を見て、彼は今更ながら絵に対して自由な発想と考えを持っていた人だったのだと思った。そして軽やかである。軽いのではなくて、軽やか。

絵を描くことに、躊躇いとか迷いなどはなかったのだろう。心の赴くままに、自由に、描くことを楽しんだ。

このあたり(三十三間堂周辺)は、後白河法皇と清盛のエリアであるが、同時に豊国神社、方広寺、耳塚、そしてこの養源院と、秀吉の爪あとも濃厚に漂っている。
そういえば、高台寺なども秀吉ゆかり。
秀吉は平清盛の上に自分を乗っけたかったのか。

いずれにしても今だに歴史の跡を濃厚に残す一帯であった。

養源院は拝観料500円である。寺も狭くせせこましい。けれども、見応えはあるし、案内は丁寧だし、アットホームだし、お勧めだ。絵葉書も安い。


法住寺

養源院の隣にある法住寺は後白河法皇が住まいしていた御所(離宮)だったという。もともとは広大な敷地を持ち、三十三間堂はこの法住寺の一角にあったというから、ちょっと現在では想像がつかない。

法住寺へ向う途中にこの先身代わり不動あり、という立て看板が立てられている。

木曽義仲の焼打ちの際に後白河法皇の身代わりに焼かれた像だという。そういえばテレビ「義経」で、習いましたね。

小さい寺のくせに(失礼)拝観料がいるので入らなかった。門だけ写真に写した。すんません。


南大門 門の内側から…こんなひどい写真しか撮れない…

養源院、法住寺と歩いて、三十三間堂の向いをさらに南に行くとこの南大門がある(七条通から見えている)。門の向こうは塩小路通。塩小路通側の方が門の様子が良く分かるが、通りが狭くて門の全体が写せない。
この門も、秀吉の再建であるという。

今は中途半端な門だけがある。そして、門の西側は三十三間堂の築地塀と繋がっている。もともとは、先ほど言ったようにすべてが法住寺だったからだろうか。

それにしてもこのあたり、清盛-後白河法皇の上に乗った秀吉、そして家康とのせめぎあいを濃厚に反映しているエリアであった。

三十三間堂へ


参考 養源院略由緒

近所 智積院 妙法院 豊国神社 方広寺

 

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