Temple

三十三間堂
界隈

東山区七条大和大路

06/1/4

三十三間堂は、ご存知の通り正式名称を蓮華王院と言い、向かいにある法住寺を御所としていた後白河法皇が、平清盛に命じて作らせた堂である(のか?自信のない説明…)。

とりあえず後白河法皇、清盛にゆかりのある寺であることは間違いない。

日本の寺としては珍しく数で勝負、物量がものを言うという思想に基づいて作られている。当時はこういうスタイルが流行ったそうであるが。

七条通に面し、七条京阪からすぐのところにあり、京都駅から歩いても知れている。
時間があれば、京都駅からゆっくり歩いて行くのが良いだろう。


七条通 何の変哲もない写真…すんまへん

七条通を通れば、京都がいかに田舎かということが分かって面白い。文明に見放されたような、片田舎の温泉街のような七条通は、四条通や河原町通と同じ京都かとびっくりする。
七条通には進歩も変化もない。この鄙びた七条通を私は愛して止まない。

ウチからは、三十三間堂並びに国立博物館へは、当然歩いてゆく。多少危ない気配はあるが、気にしなければ何ともない。

七条大橋の北にある正面橋を渡るのもまた一興。これは、方広寺大仏殿へ向う道である。

ここは七条大橋である。この向かいに白いマクドナルドがある。冬にはここにもユリカモメなどが飛来する。鴨や鷺などを発見することもある。のどか。

私はかねてより、この写真を撮るのが念願であった。博物館の横にくっつくように設置されている交番(派出所)の名前は、「大仏前交番」。ちゃんと看板が出て、しかも矢印まで。
いつもこの看板を爆笑しながら見ているのだ。

大仏とは方広寺の大仏のことで、秀吉の建てた方広寺に由来する。もちろん今は現存していない。国立博物館は、方広寺の跡に建てられたのだ。

大仏前交番が、なぜ国立博物館前交番ではなく大仏前という名前なのか。謎である。

三十三間堂の向かいは、言っているように国立博物館である。ひっそり、鄙びたようすで佇んでいるが、私のお気に入りである。

年に一度、常設展が無料解放されるが(関西文化の日)、その時は見違えるように人が一杯になる。

そんなわけでやっと三十三間堂に到着した。三十三間堂は、意外なほどいつも賑わっている。駅から近いこともあって、観光地としてよく知られているのであろう。

建物自体は、清盛が建てた頃のものではなく、例によって火災で焼け、再建されたものだ。
中の仏像も鎌倉時代に補填されたものが多い。
そんなわけで、運慶(?ほんとか)、快慶を始めとする慶派の作のものがあるのだ。

なお、三十三間堂は、現在は横に長ったらしいお堂があるのみだけれども、1164年の創建当時は五重塔や、不動堂など他の建物も建ち並ぶ大伽藍であったという。

 

さて三十三間堂といえば、この横にやたら長い三十三間あるお堂の中にある、1001体の千手観音が有名である(500プラス500、プラス本尊の坐像が1)。

お堂の中に足を踏み入れたら、まずめまいがする。
端が見えない。千手観音が10列ほどで、ウィアー・ザ・ワールド状態で壇上に立っており、その物量に圧倒される。
そして、ゆけどもゆけども、歩けどもあるけども途切れない千手観音の列に、だんだんくたびれ、息が荒くなる。
とにかくどんなに歩いても、観音列が終らないのだ。

ゼイゼイ言いながら、まだか、まだあるか、と、ぶつぶつ呟き、そうしてどれだけ時間が経ったろうか…と、涙が出そうになる頃、ようやく列が途切れ、やっと終りだ…、と安堵する。

しかし、それはフェイクなのだった。
列が途切れると、本尊である巨大な千手観音の坐像が現れる。それは、お堂のちょうど半分の処にあるのだ。
つまり、そこは千手観音立像の列が半分終った処。

あとまだ半分、団体がおられるのだ。ちょうど今まで歩いて来たと同じ分、また辛抱しなければならないのだ。
そう思うと、一瞬絶望が襲う。
しかし、次の瞬間、どことなくすがすがしい思いが湧き上がって来る。

よし、と、腹をくくる。こうなれば、とことん付き合おうじゃないか。千手団体よ、どんと来い。行くとこまで行くぜ。
という気になるのだ。

三十三間堂は、このように自己との対話、自己との戦いを促す場でもあるのだ。


庭もちゃんとある

千手観音が1001体、というが、実際に飾られているのは998体である。

あとの3体は、京都国立博物館、奈良国立博物館、東京国立博物館に、各一体ずつ貸し出しされている。
三十三間堂の、貸し出し中の札は、しかも相当古い。木製だし。
おそらく戦前から貸し出されているであろうと容易に推測できる札である。木が変色しているのだ。
だから、多分、その3体は半永久的に各博物館に貸し出され続けているのだと思う。

京都の博物館にある一体はいいよ、まだ。向かいだから帰ろうと思えばすぐ帰れるし。奈良だって、まだいい。でも、東京に行ってしまった千手は寂しいだろう。可哀相に。永久に仲間とは生き別れ。
千人もいるのだから、交代で単身赴任するわけにはいかないのか。

また彼らは、千体ひっくるめて重要文化財である。

以前は、この千手観音たちの裏に置かれていた二十八部衆は、現在は観音隊の前に並んでいる。
二十八部衆というのは、奈良の興福寺でもおなじみだが(あちらは八部衆だが)、阿修羅とか、メキラとか、ガルダとか、ああいう衆のことだ。

ただ、三十三間堂には、興福寺のように、美しい若者としての衆はいない。むしろ三十三間堂は、ジジ専(失礼)と言った方が良い。婆数仙人像などのように、ジジババ像(失礼)に見るべきものが多いのだ。

そして、二十八部衆の両脇に風神・雷神像が配置されている。
これは、もちろん、俵屋宗達の、建仁寺の「風神・雷神図」のもとになったものであろう。

三十三間堂の向いにある養源院には、宗達の杉戸絵がある。宗達が依頼されて描いたものだ。その時、宗達がこの三十三間堂を訪れたであろうことは、容易に推理出来ることだ。


御幸町(ごこまち)五条上ルにある町家

三十三間堂の、横長のあのお堂の横で、毎年正月に通し矢が営まれる。

境内も長いから、昔の人がそういうことをしようと思いついたのだろう。

通し矢に使われた弓矢が、千手観音隊の裏に飾られている。その弓の作者が、勘十郎と書かれていた。

私がよく通る御幸町通の、五条を上がった所に、柴田勘十郎という家がある。ここの表札には「御手師」と書かれている。
長いこと、御手師とは何のことだろう、と私はない頭を捻りながら、この家の前を通っていた。

時々この家の玄関の扉が開いていることがあった。すると、中にはずらりと弓が、壁に立てかけられているのだった。

三十三間堂を訪れた時、通し矢の弓の作者は代々勘十郎である、という案内書きを読んで、私は御幸町のあの家が、三十三間堂の通し矢の弓を作っている家ではないか、と推測した。
そして、御手師というのは、実は御弓師、という字の読み間違いであることにようやく気がついたのであった。
行書のくずし字で美しく肩書きが書いてあるものだから分からなかったのさ。

のちに、やはり推測は当たっており、御幸町の家は、通し矢の弓を作っている家であることが分かった。京都の民家というのは油断ならない。ごく普通の家が、ものすごい由来を持っていたりする。

養源院へつづく


註・太字の部分はリンクがしてあり、飛べます。

★御幸町の町家は、佇まいや虫篭窓など造りは町家だが、最近建てられたもの(または建てなおされたもの)だと思う。普通の町家はツートーンカラーということはなく、一色だし、木は新しいので。

★ 参考 「京都 格別な寺」 宮元健次

 

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